「Aかな?いやBかも?いやいやCでしょ!」とボクはどんどん間違っていく。

「かもしれない」ということは無意味なのか?

ボクは「かもしれない」という言い回しをよく使う。これははっきりいって自信のなさの表れだと自覚している。自分の中で確信に至ってない場合もあれば、人の反応を気にして断言できない場合もある。
 
なので、この記事はかなりグサリときた。
 
 
 
そんなことなら 1秒も考えなくてもわかる。てか、それって言う意味ある??(Chikirinの日記)
AともBとも表明しないなら、何かを言う意味ないんじゃないの?という意見。まぁ、それが議論の場だとしたら、その人がいなくても結論に至るわけだから、たしかに意味はない。でも、ボクはブログでは常に議論したいわけじゃないからなぁ。
 

そして、仕事も人生も成功が遠のいていくらしい。

自分の意見を持つ人にしか、自分の人生は選べない。決められない人は、自分の人生を生きられないんです。そしてもちろん、仕事上で価値が出せたりするはずもない。(Chikirinの日記)

ついには人生や仕事での成功もムリですよと突きつけられてるから、かなりヘコまされる。

 

ボクもずっと決めない、断言しないという状態でのらりくらりとやっていけるとは思っていない。だけど、人よりスローペースだから、Aかもしれないし、Bかもしれないと考えてる時間が長くて、結果的にそういう書き方をしたブログの記事が増えていく。

 

これって「オレはまだ本気だしてないだけ」とか言ってるみたいでかなりカッコ悪い。いや、実は本気だしてるのに答えがなかなか見つからないんだから、もっとカッコ悪い。まぁ、それが自分なんだから、受け入れるしかないんだけど。

議論では役立たなくても生きる道はある!

かなりネガティブな感じに反応してしまったけれど、1㎜ほどの反骨精神は発揮しておく。

 

世の中の人すべてがこれはAだ!これはBだ!と主張したなら、ホントに疲れる世界になってしまう。常に会議がたかじんのそこまで言って委員会みたいになったとしたら、そりゃあもう疲弊感ハンパないだろう。ちょっと面白そうだけどw

 

それから、人に相談したとき、常にそれはAだよ!とか断言されるともう話したくなくなるでしょ。だから、断言しない人に寄り添っていてほしい瞬間もあるんじゃないかと思う。成功には遠回りするんだろうけど、役に立つかどうかで言えば、役立つシーンもあるんじゃないかな。

 

まとめると「AともいえるがBともいえる」という姿勢でいる人は議論ではあまり役に立たないとしても、ただ話を聞いてほしいときには重宝されると思う。だから人生論にまで展開するのはちょっといきすぎじゃないでしょーか。

もう間違いだらけの主張しちゃってるらしい。

議論への参加は諦める方向で話を終えようとしていたところ、この記事が目に止まってしまった。

どんどん間違っていこう - 寿司はえんがわ。~Engawa RotMG ブログ~ 別館

 

間違った意見をどんどん言ってみればいい。どんどん楽しめばいい。(ただし、むやみに個人を傷つけたりはしないという配慮はあるべきだと思います。以前どれかの記事にも書きましたが、ぶん殴るような方法でしか異議は唱えられないなんてことはないのだから。)(寿司はえんがわ。~Engawa RotMG ブログ~ 別館)

ボクは間違えることよりも、人を傷つけることを恐れて「それはAです!」とは言えずにいることのほうが圧倒的に多い。だけど、そこに配慮しながらも主張することはできるんじゃないの?という意見。そもそも議論に参加することへのこだわりが薄いということに気づかされてしまった。

そして、当然この記事にもつながる。

僕らはみんな、間違っている。 - 犬だって言いたいことがあるのだ。

 

 あなたが表現者として、間違いだらけの文章をこの世の中に撒き散らす人生は、すでに始まってしまっている。(犬だって言いたいことがあるのだ。)

自分が議論の場では役に立たないと思っていようが、常に議論したいわけじゃないと思っていようが、起こった事実を淡々と書き綴ってるだけではないとしたら、もうすでにボクは間違いだらけの主張を撒き散らしてしまってるらしい。まぁ、言われてみればそりゃそうだよな。

 

こりゃ、もう楽しむしかないか。

 

さんざん人生論にまで及んで葛藤したのに、この安易な結末はなんだ。笑うしかないじゃないか。