理想を捨てて現実だけを見据えては生きられない。
やままさんの記事を読んで何かモヤっとしていて、たぶんボクの中には違う意見があるんだろうと思いながらも、なかなか言葉が出てこない。
私の不快感は「正しいと信じている理想(=妖怪べきねば)」と「理想に沿えなかった残念な現実」のギャップによって生じているのです。ならばそのギャップをつくらなければいい。理想なんてものがあるからいけない。(言いたいことやまやまです)
現実がすべて!理想とのギャップがあなたを苦しめる(妖怪べきねばがやってくるぞ) - 言いたいことやまやまです
理想と現実とのギャップによって不快感が生じる、というのはたしかにそのとおりだ。
思い通りにいかないことにイライラしたり、悲しくなったりすることは心地いいはずがない。
だったら、ギャップが生じないよう理想を捨てようというのは、とてもわかりやすい理屈なんだけど、そこで置き去りになってしまう感情がある。
理想=正しさとすると考えにくいので、もうちょい噛み砕きたい。
そうだ。最近ブログに書いた「仲間がほしい」というのは理想ではあるけど、正しさとはちがう。
つまり、「仲間をつくるべき」ではなくて「仲間をつくりたい」なのである。
すべてを妖怪べきねばとして、悪霊退散させてしまったら、正しさとは関係ないものまで失ってしまわないだろうか。
ただ「したい」という願望は長らく叶わないまま抱き続けると、いつのまにか「べき」に変容してしまう。
ボクが幸せに生きるためには仲間をつくるべきなんだー!的な。
いやいや、仲間をつくるのは義務じゃないでしょ。ボクは1人でも十分楽しく生きられるじゃないか、おちつけ!と、今なら言えるけど、そうはいかない心理状態に陥ってしまうことは多々あるんだよなぁ。
まぁボクはそんなに夢見がちな人間ではないけれど、理想を捨てて現実だけを見据えて生きるのは流石にちょっと無理だ。
そう考えると、Beckさんや倉下さんに続いて、やままさんとも仲間になれないってことになるのか!これは残念極まりない。
いやいや、そうゼロか100かで考えるんじゃなく、仲間が無理なら知り合いでいいじゃないか。知り合いも無理なら付き人でもいいじゃないか・・・ってなんか違うな。
とにかくささやかでもボクは理想を追っていたい。難しいことだけど、現実を見据えて妥協点を探りながら、叶わない空虚さに抗っていこう。
とりあえず、自己啓発書でさんざん語られてきた「hogehogeを捨てると楽になる」という話は「そりゃまあそうだけど」という気持ちで眺めているので、個人的にはそれを踏まえた上で、そのhogehogeを捨てずにうまく付き合っていく方法を探究していきたい所存です。
— 倉下 忠憲 (@rashita2) 2020年9月30日
倉下さんがもっと端的にボクがふにゃふにゃと書いたことをツイートされてた。
これを先に読んでたら、いいねするだけで終わってブログには書かなかっただろうな。
この「自分が言わなくても」という感覚はブログをあまり書かなくなってしまった要因のひとつだろう。
これも掘り下げたくなってきたけど、話が逸れすぎるので、別の機会にしようっと。