正解を探すんじゃなく、間違っててもいいから、まず自分の思いを語ろう。

ほぼ日手帳の日々の言葉が気になった。

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9月14日のほぼ日手帳「日々の言葉」にこんな言葉が載っていて、どうにも心にひっかかったので、ちょっと書いてみる。

ボクは正しいか?間違っているか?だけで物事を判断するのがキライだ。これは子供のころからの性分で「なんで?」と聞いて「そうするのが正しいから」という答えが返ってきたら、反発せずにいられなかった。父親は「正しさ」でねじ伏せるタイプの人だったから、常にボクは反抗してた。「なんで正しいの?それは誰がきめたの?」としつこく問い返すとだいたい殴られて泣いてた気がする。

そんな感性のまま、年齢を重ねてしまうと非常に生きづらい。学生のころ出会った先生はほとんどが「正しさ」を押し付けてくるタイプだった。「そう決まっているから」とか「とにかく覚えろ」とか言われると、まったく勉強する気力がわかなくなって、人生のレールというやつから、危うく外れていきそうになった。まぁ、見た目にわかりやすい不良化とかじゃなく、休みがちになったり、授業中しょっちゅう寝ていたりとか、そんなヘタレな状況に陥っていた。完全に外れてしまう勇気はないから、ギリギリで踏みとどまってはいたけれど。

いつのまにか正解探しの日々がはじまった。

それから数年後、社会人となったボクはいつのまにか「ズレている」という言葉をトリガーに、必死に正解を探す人間になっていた。仕事の状況報告をする度に「ズレている」と上司からダメ出しをくらい、自分の浅はかさを思い知らされる。何がズレているのかわからずに問い返すと「そんな小学生でも解るようなことがわからんのか?自分で考えろ」とか言われて更なる叱責をくらうから「何がズレているんだ?」「またズレてるとダメ出しされたらどうする?」そんなふうに常に悩むようになった。

その仕事の目的を果たすためじゃなく、上司にダメ出しされないために、叱責されないためにどうすればいいか?と正解を探すことにボクは多くの時間を費やしていた。答え合わせの日々は延々と続く。「ズレている」という言葉を浴びるたびに自信を失っていく。仕事でそんなことをやっていると、すべてのことに対して正解を探してしまうようになった。ある人から「正しいか間違ってるかじゃなくて、アナタがどう思うのかが聞きたいんだけど」と言われた。それは、ボクが幼いころからずっと人に向かって言ってた言葉だった。いつのまにか自分が自分でなくなってしまっていたことに気づいて哀しくなった。

一度染み付いてしまった正解を探すクセは、なかなか抜けない。自分が思うことを素直に伝えようとすると頭の中に「ズレている」という声が響いて、言葉に詰まるのだ。まぁ、あのころは明らかに精神的に病んでいたんだろうな。きっと、あのころのボクはこんなふうに自分が思うことをブログに書いてネットに公開するなんてことは怖くてできなかっただろう。いや、まぁ、今も怖いけどさ。

正しさはあとでいい。

そんな苦すぎる経験があって、ボクは人に対して「ズレている」という言い回しは使わない。その人らしさを壊したくないし、正解探しに陥ってほしくないからだ。とりあえず、間違ってたっていいから、どう思うのかを聞かせてほしい、といつも言っている。どうしても必要なら、「正しさ」については、そのあとでじっくり話せばいいじゃないか。いろいろ納得いかないこともあるけど、しゃーないよねぇ、とか言いながら。