ちゃんと叱れないことに罪悪感を感じる。

怒声を聞いて考えたこと。

「主語はなんやねん。いきなり言われてもなんのことかわからん!」「単語でしゃべるのやめてくれよ!」そんな怒声聴こえてきた。まぁ、詳しいことはわからないけど、たぶんこういうことだろうというのは想像がつく。

仕事の報告において、まず「できました!」と報告して「なにが?」と問われる。これが主語はなんやねん問題。続いてなにが?と問われたことに対して「◯◯報告書です」とだけ答える。これが単語でしゃべるな問題。

こんな状態だと報告を受ける側は「なにが、どうして、どうなったの?」と質問をしまくらなきゃいけない。だから、いいかげんにしてくれよと怒声の主はしまいに頭にきたというところだろう。

自分でも経験があるのだけれど、そろそろ報告しとかないと!と焦って報告すると、こういうふうになってしまいがちだ。あまり時間をかけずに伝えるべき要点ぐらいは整理して報告するのがマナーだろう。

ついえらそうに報告の仕方を語ってしまったけど、今語りたくなったのはそっちじゃない。叱られてる彼に対して、ボクも同じように感じることがあるし、やんわりと指摘することもある。でも、一度も叱ったことはない。そう、ボクは叱れない人なのだ。

叱ることはむずかしい。

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ボクだって指摘はする。だが、それは叱るとはほど遠いものだ。ちょっとえらそうな感じだけど、言い諭すと表現したほうが正しいかもしれない。「いいかげんにしろよ」と言いたいようなときでも感情を抑えて、今後どうすべきかを落ち着いて伝える。それがボクのスタイルだ。

事細かに覚えてはいないけれど、先に書いた叱られた彼に対して、ボクも指摘をしたことはあるものの、淡々と言い諭すが故に心に響かず、今怒声を浴びる状態に陥ってしまったのかもしれないとも思う。

「あぁ・・・ボクのせいで」とまでは思わないにしても、自分の中に今後、彼がスムーズに仕事がこなせるように、という強い情熱をもって厳しい言葉も交えながら叱ることができていたなら・・・と考えると、なんだか後ろめたい気持ちになってしまう。

あれだけ強烈に人前で叱られたら、彼は言われたことが強烈に印象に残っただろうし、また同じ失敗を繰り返すことはゼロにはならなかったとしても、少なくはなるだろう。

一方でじゃあ、それで解決だね★とはどうも思えない自分もいる。今回のこともそうだけど「ちゃんとしゃべれ!」というような人の根本的な行動のあり方を指摘するときは、叱る側が想定する以上に相手は「つうこんのいちげき!」を食らったと感じてしまうことが多いんじゃないだろうか。

いや、まぁ・・・自分がそうだったからなぁ。ただ単に自分は自己肯定感が弱いから、そう感じてしまうだけで誰もがそんなに脆くはないのかもしれない。でも、やはり効果的に叱るには、相手の性格をよく知ったうえで叱るべきだろうし、場合によっては人前を避けて、場所を変えて叱ったほうがいい。

恐怖で萎縮させるのは「育成」じゃなく「調教」だ。

ごちゃごちゃまとまりのない文章を書いていたら、ボクが言いたいことを全部言ってる記事を見つけてしまった。

部下や後輩をうまく「叱る」ことができる人などほとんどいない - 脱社畜ブログ

結局、「叱る」というのはそれ自体が高等テクニックであり、誰でも簡単にできるようなものではないということだ。恐怖を与えて萎縮させることで相手の行動を制限することはできるかもしれないけれど、それは「育成」というよりかは「調教」とかそういう類の言葉で表現すべきものだ。人間は動物ではないのだから、恐怖を与えて行動を制限するようなことはすべきでない。何より、こういったやり方は理不尽が下の世代に延々と連鎖するという悲劇を生むだけで、組織に対してもいい結果をもたらさない。(脱社畜ブログ)

恐怖を与えて萎縮させ、行動を制限するのは「育成」じゃなく「調教」である、というのが、まさにボクがひっかかっていたことだ。 どれだけ自分が「育成」だと思って叱っていても、それに相手が応えて「がんばろう!」と思えなかったとしたら、それは「育成」には成り得ず、ただの独りよがりに終わってしまう。

このことをしっかり心に刻んで、ちゃんと叱ることができるよう努力していこう。仕事上のことだけじゃなく、いつか自分が親になったときに役割を果たせるようにしたい。ちゃんと叱れないことは家族関係において致命傷になる可能性もあるしなぁ。まだままだ自分自身叱られることもあるし、そんなときにも、ただヘコんだり、急にやる気になったりするだけで終わるんじゃなく、自分の感情の動きからもリアルに学んでいきたいな。

できるだけ叱られることは少なめにしたいけれど。