大人ってなんなのか解らないまま、いつのまにか大人になった。

大人に解ってほしかったことってなんだったんだろう?

今週のお題「おとな」について考えてみる。

 

このお題を見て瞬時に脳裏をよぎったのは、尾崎豊の「15の夜」で歌われるこの歌詞だった。

15の夜

15の夜

 

心のひとつも解り合えない大人達をにらむ

(15の夜 / 尾崎 豊)

ボクにも確かにこの歌詞に共感した時期があったから、この歌詞がいまだに鮮烈に印象に残っているわけだけど、いつのまににらむことをやめたんだろう?いや、実際に大人たちをにらむなんてことはできないヘタレだったから、こっそりココロの中でにらんでたんだけどね。もちろん、校舎の裏でたばこをふかしたことなんかないし、盗んだバイクで走り出したこともない。

 

校舎の裏に連れていかれて殴られそうになったり、バイクに乗ってみようとして転倒しそうになり、それ以降バイクにまたがろうとしたこともないとか、思い出したくない記憶ばかりが蘇ってくる。うーむ。このお題にのっかるの失敗だったか?

 

ちょっと話を戻す。あのころ「大人たちにわかってほしかったこと」って一体なんだったんだろう?今みたいに手帳を書いたり、ブログを書いたりする習慣がなかったから、思い出す手がかりがないのが残念だ。

 

なんとなく子供扱いされたり、大人が言うことは常に正しいという感じに押し付けられるのが耐え難かったような気はするんだけど、はっきりとは思い出せない。まぁ、そんな理屈じゃなくて正しいとか間違ってるとかも関係なく、ただ自己主張したかったのかもしれない。

 

それがなんだったのか、さっぱりわからなくなったボクはいつのまにか大人になったということなんだろうな。しかし「子供のころの気持ちを思い出せなくなったら大人」という喪失感が伴う定義はあまりにもさびしいし、そこには人間的成長が感じられなくて悲しい感じがする。「明日のことを考えて今日に全力投球しなくなったら大人」…ってこれもやだな。

自分より大切に思えるモノを見つけたら。

ちょっとイイ感じの答えが見つからないので、ここまでで一旦フロに入ってゆっくり考えてきた。いつもはフロの支度はボクの役割なんだけど、今日は帰りが遅くなったから、ありがたいことに奥さんがフロの支度をしてくれた。これをヒントにひらめいたことがある。「自分より大切に思えるモノを見つけたら大人」ってのはどうだろう?

 

ボクは幼いころ、かなり身体が弱くて、しょっちゅう母親が夜通し付き添ってくれた記憶がある。たまに父親が付き添ってくれたこともあったかな。今考えてみれば、その状態でいつもどおり出社するのは大変だっただろうなぁ。そんなふうに自分の苦労をいとわず、大切にしたいモノを見つけたら、人は大人になるような気がする。たぶん、年齢は関係ないんじゃないかなぁ。自分のことしか考えない人は、やはり子供だなという気がするし。

 

さて、解ったようなことを書いているけど、自分はどうなのか?自分より大切に思えるモノは見つけてるつもりだけど、十分大切にできてるだろうか?

 

うーん。もっとがんばろう。大人の階段のぼろう。