期間限定の自由について考えていたら、身勝手さに気づいてしまった。

最近は「期間限定の自由」というのをかなり意識しながらすごしている。

なぜ期間限定なのかというと、来年の2月には2人めが生まれる予定なので、そのあと1年半ぐらいは自分の時間を持てない暮らしが待っているからだ。

自分で決めたことだから後悔はないけど、今のうちにやれることはやっておかないと!っていう気負いはめっちゃある。

このブログを書くってこともできなくなるので、今のうちとばかりに書き散らかしてるってところもあるしね。

しかし・・・何が期間限定の自由だ。妊娠中の奥さんなんてすでに殆ど自由なんてないじゃないか。在宅勤務をしてると奥さんの生活サイクルを目の当たりにすることになるけど、ホントにめまぐるしい。

奥さんの自由時間は退社してから保育園お迎えまでの10〜15分ぐらいと、ボクが息子を風呂に入れて歯磨きして寝かしつける30分ぐらいだ。1日に1時間も自分の時間がない。

ボクはといえば、息子の寝かしつけや家事を済ませるのがだいたい23時ぐらいだとすると、そこから約2時間ぐらいは自由な時間がある。もうちょっと早く寝たほうがいいというのはあるとしても。

どうしても時短勤務の奥さんのほうに負担を強いてしまいがちになる。だからできるだけ、休日はボクが息子を外へ連れ出して、奥さんの自由時間を作ろうと思うのだけれど、ボクもいい歳したおっさんなので、そう長時間2歳児といっしょに走り回っていられる体力がないんだよなぁ。

この状況の中、2人めが登場したらどうなってしまうんだろう?というのは、なかなかリアルには想像しきれない。まぁなるようになるさと思っておかないとしんどくなるしね。

いやー、なんともとりとめのない話になってしまった。もっと期間限定の自由で何をするのか?っていうことにフォーカスして書きたかったんだけど、なんだかネガティヴな方向へ進んでしまったな。それはまた改めて書くとしよう。

思いを素直に言葉にできなくなってるので書きまくって練習する。

今から書こうとしてるこの記事を公開できたら、4日連続のブログ更新ってことになる。 何を急に狂ったように書きまくってるかというと、一番の目的は「思いを言葉にする練習」だ。

え?いまさら?と言われて当然なんだけど、 どうも最近は頭に浮かんだことをすらすらと言語化できない感覚があるのだ。

このブログとは別にWordPressでちょっとがんばって書こうとしてるブログを持ってるんだけど、 まー、書きたいネタはいっぱいあるのに全然手がすすまない。

SEOを意識しすぎてなかなか書き進められないとかそういう次元じゃなく、 言いたいことがまったくうまく言葉にならないのである。

書いては消し、書いては消し、うんうんと唸ってはいつのまにか気を失って寝てる。 そんな日を何日もリピートしてしまって、さすがにこりゃダメだなと悟った。

ブログを書かずに過ごしてた時間が長すぎるんだから、まずは気軽に思ったことを ガシガシ書きなぐって練習しよう、っていう思惑でこれを書いてるわけだ。

そんな感じなので有益な情報発信なんかがあろうハズもなく。

もし、何かの間違いでそれを期待して読んで下さってる方がいたらすみません。 たぶん、このブログは誰かのお役に立てるような高尚なブログじゃないです。

そうそう。それからもうひとつ目的があるんだった。 「素直に書いてつながれる人を見つける」ってことかな。

このブログを書き始めたころには、ブログを通じて人とつながることが楽しく、 SNSに近い感覚でやってるところもあったんだけど、いつのまにか どうせ人は死ぬときゃ一人なんだ。誰かに期待せず、一人でも楽しめる自分になろう、 みたいな生き方をめざすようになって、数年がすぎた。

常に自己完結することで傷つくことは少なくなり、誰かの痛みに共感しすぎて やたら気持ちが浮き沈みすることもない。これこそ理想の生き方に違いない!

そう思っていたのだけど、なんかそれは屈折してるし、単純に寂しいし、 刺激も成長も少なすぎると今さら気がついたのである。

そんなわけで、少なくとも10月はそんな目標を掲げつつ、 ガシガシ書いて積極的に人と関わっていこうかなと思う次第なのでした。

理想を捨てて現実だけを見据えては生きられない。

やままさんの記事を読んで何かモヤっとしていて、たぶんボクの中には違う意見があるんだろうと思いながらも、なかなか言葉が出てこない。

私の不快感は「正しいと信じている理想(=妖怪べきねば)」と「理想に沿えなかった残念な現実」のギャップによって生じているのです。ならばそのギャップをつくらなければいい。理想なんてものがあるからいけない。(言いたいことやまやまです)

現実がすべて!理想とのギャップがあなたを苦しめる(妖怪べきねばがやってくるぞ) - 言いたいことやまやまです

理想と現実とのギャップによって不快感が生じる、というのはたしかにそのとおりだ。

思い通りにいかないことにイライラしたり、悲しくなったりすることは心地いいはずがない。

だったら、ギャップが生じないよう理想を捨てようというのは、とてもわかりやすい理屈なんだけど、そこで置き去りになってしまう感情がある。

理想=正しさとすると考えにくいので、もうちょい噛み砕きたい。

そうだ。最近ブログに書いた「仲間がほしい」というのは理想ではあるけど、正しさとはちがう。

つまり、「仲間をつくるべき」ではなくて「仲間をつくりたい」なのである。

すべてを妖怪べきねばとして、悪霊退散させてしまったら、正しさとは関係ないものまで失ってしまわないだろうか。

ただ「したい」という願望は長らく叶わないまま抱き続けると、いつのまにか「べき」に変容してしまう。

ボクが幸せに生きるためには仲間をつくるべきなんだー!的な。

いやいや、仲間をつくるのは義務じゃないでしょ。ボクは1人でも十分楽しく生きられるじゃないか、おちつけ!と、今なら言えるけど、そうはいかない心理状態に陥ってしまうことは多々あるんだよなぁ。

まぁボクはそんなに夢見がちな人間ではないけれど、理想を捨てて現実だけを見据えて生きるのは流石にちょっと無理だ。

そう考えると、Beckさんや倉下さんに続いて、やままさんとも仲間になれないってことになるのか!これは残念極まりない。

いやいや、そうゼロか100かで考えるんじゃなく、仲間が無理なら知り合いでいいじゃないか。知り合いも無理なら付き人でもいいじゃないか・・・ってなんか違うな。

とにかくささやかでもボクは理想を追っていたい。難しいことだけど、現実を見据えて妥協点を探りながら、叶わない空虚さに抗っていこう。

倉下さんがもっと端的にボクがふにゃふにゃと書いたことをツイートされてた。

これを先に読んでたら、いいねするだけで終わってブログには書かなかっただろうな。

この「自分が言わなくても」という感覚はブログをあまり書かなくなってしまった要因のひとつだろう。

これも掘り下げたくなってきたけど、話が逸れすぎるので、別の機会にしようっと。

どうやらボクはただのてちょらー或いは手帳変態らしい。

鞘戸 コウは○○の人である、と言いたいというようなことを先日書いたけど、倉下さんのポッドキャストを聞いていて、そのヒントを見つけた。

第二十二回:Beckさんと2020年の手帳について - Rashita | Podcast on Spotify

Beck : だんだんだんだんやっぱり文明の利器が発達していくに従って、昔手帳で賄えていた機能がクラウド側に移行されていった結果、いまほぼ手帳じゃなきゃ困るっていうのはなくなったかなぁってのがあると思います。(うちあわせCast)

まずはライフハッカーなBeckさんの話から。家計簿とか予定(とその変更)とかっていうのは、はっきりいって手書きはめんどくさいし、クラウドアプリで処理するのが正解だとボクも思っていてまったく異論はない。

でも、だからといって手帳じゃなきゃ困るってのがボクの中でなくなったのかというと、なくなってはいない。

それってどういうこと?という話に展開する前に倉下さんのコメントも拾ってみる。

倉下 : ちょっと日常に膨らませる時間を入れていく。落ち着いて書くことを。で、けっきょくまた手帳を見返しながら日記をEvernoteに書く。だから手帳がなくても本来は困らないんですよね。(うちあわせCast)

あえて立ち止まって手帳に思いついたことを書き込む時間を設けるものの、その内容はEvernoteに転記するとのこと。

ううむ。たしかにこれだと手帳に一旦書かなくても考えて膨らませる手法を見出したなら、手帳はいらなくなりそうだ。

お二人の共著「シゴタノ!手帳術」がスキだった者としては、少し寂しい気もするけど、まぁあれから10年ぐらい年月は経過してるし、そりゃ変わって当然だ。

むしろ変わっていくからこそ面白くて、ボクは今もポッドキャストを聞いたり、ブログや書籍を読んだりして追いかけているわけである。

ただ、お二人は「手帳はなくても困らない」と明言されているが、ボクはないと困るのだ。

ボクにとって手帳は道具ではなく、趣味なのである。手帳マニアが集うイベント「てちょけん」で誰かが言ってたけど、手帳は嗜好品なのである!

あぁBeckさんや倉下さんの仲間になってみたかったのに、少なくとも手帳に関しては仲間になれそうにない。

手帳の感触や微妙にアップデートされていくフォーマットににじむ製作者の思い、文字で埋め尽くされたページをめくる喜び・・・なんだ、ただの手帳変態かよ。

ちやほやされたいなんて言えない。

思い返せば、私は物心ついたころから肩書きを求めていたように思う。有名人になりたかった。ちやほやされてみたかった。そのためには、みんなをアッと言わせる肩書きがあればいいのだと思った。(言いたいことやまやまです)

https://www.yamama48.com/entry/ujiuji202009

こんなことをさらっと書けてしまうやままさんはすげえな、と思う。ボクは日陰を歩んできた人間なので、ちやほやされるってどんな感じだろう?と妄想したことは何度もあるが「ちやほやされたい」なんて言ったことはない。

たぶん世の中の多くの人はそんなことを言ったら、どう思われるだろう?思われるだけでなく、叩かれたらやだなとそっと胸にしまうようなことだ。

そこでふと考える。 ボクはちやほやされたいだろうか?と。

ツイートすればめっちゃリツイートされて、いいねがめっちゃつく。ブログを更新すればめっちゃはてブされて好意的なコメントが溢れかえる。

ううむ。それはめっちゃ楽しそうだ。

思い返せば、このブログでも何度かバズったことはあって、あれを「ちやほや」と表現するなら素直にまぁ楽しかったなぁ。

でも同時に思い出すことがある。 その後、ボクは以前のように軽やかにブログを書けなくなってしまったのだ。

それはたまたまその記事がちやほやされただけでボクがちやほやされたわけじゃない。でも、勝手にプレッシャーを感じて、自由に書けなくなったし、1ミリもちやほやされなくなると、自分がダメになったような気にもなった。

いや、別にダメになったわけじゃなく、通常運転に戻っただけなのだと頭では分かっていてもなかなか割り切れない。

そんな経験を踏まえると、もうちやほやはいいかなと思うけど、やっぱり自分が発信したものにたくさん共感をしてもらえたらうれしいのは当たり前だよなぁ。

「たくさんの共感」と書いたけど、別にたくさんじゃなくていいなと書きながら気がついた。

ボクはまあまあ偏った人間なので、共感してくれる仲間と呼べるような人が2,3人いれば十分満足できる気がする。

最近、ポッドキャストを積極的に聞くようになって思うけど、そう一般受けしないだろうなと思うようなマニアックな話を延々してるのは、ホントに楽しそうだし、聞いてるのも楽しい。

ボクはちやほやされたいんじゃなく、そういうマニアックな話ができる仲間がほしいだけだな。

そのためには自分はなんのマニアなのかを表明しなきゃ話にならない。「鞘戸 コウは○○の人」ってのを発信していくのがまず第1ステップか。

まぁのんびりやろう。

万能パパでも人としてダメパパでもない中途半端パパ

ネットをだらだら見ていると、シングルファザーでもやっていけそうなパパと育休取ってパチンコ通いするような酷いパパ(もはやパパではない)の両極端な事例が目につく。

ボクはというと、家事育児を頑張りたいと思いつつもうまくやれないというどちらにも属さない存在だという自覚がある。

何が困るかっていうと、気持ちの置きどころがないというか共感できるシーンが少ないということなんだよなぁ。

うまくやれないママたちの記事は溢れていてそれに共感できるけど、うまくやれないと悩むパパの情報はとても少ないのだ。

1人めの妊娠が分かったとき、ボクはあまりにも無知だったのでパパとして何ができるのか、やらなきゃいけないのかをネットや本で調べまくった。

残業を減らし、ママのつらさを理解して家事負担を減らし、授乳以外のすべてを担えるパパになろう、という言葉が重くのしかかる。

その当時は職場で人の入れ替わりが激しく、上司の思いつきもすべて自分に降りかかっていたので、到底残業を減らせる状況じゃなかった。

「残業を減らし」の最初の6文字で挫折してスタートラインにすら立てない。

そんななか奥さんに「育児を手伝いだと思ってない?」とかなり辛辣に責められたことがあった。

オムツ交換のタイミングをよく忘れるとか、出かける時に子供に着替えさせたり、持ち物を準備したりというようなことがちゃんとやれてないのがきっかけだった。

育児を手伝いなんて思ったことは1度もなく、さすがに心外だと頭にきたけれど、やれてないのは事実なので反論のしようがない。

そんなときネットに共感を探すけど、万能パパを見ては自分のダメさ加減に落ち込み、ダメパパを見ては「まだマシかな」と思う。気持ちの振れ幅がすごすぎてとても疲れた。

ボクと同じくうまくやれないと悩むパパが共感し得るものの1つとして、とりとめのない思いをここに書き残しておく。

無謀でうれしくもつらい日々のはじまり

無謀にも2人めを授かった。

当初、ボクにしては珍しく奥さんの提案に反対した。

子供はかわいい。ボクだってあの清らかなふわふわをもう一度抱いてみたい、という気持ちはある。

でも、現実は相当きびしい。 精神的にも体力的にも金銭的にも。

2歳児一人でも振り回されて目まぐるしく過ぎゆく日々。苦手な片づけが全然追い付かず、片づけても次の瞬間には片づける前より散らかってしまう。これが2人になったらもう汚部屋まっしぐらだ!

もし、一人めのときのように奥さんが切迫流産になったら?2歳児の面倒を見つつ、絶対安静の奥さんの面倒も見るとか会社を休まずに対応できるはずがない。

無事に生まれたとしたらどうか? 新生児がふぎゃー!と泣いて起き、3歳児もその声でうぎゃー!と泣いて起きる。そんな地獄絵図がボクの頭の中を支配する。

・・・ちょっといくらなんでもネガティブに寄りすぎだ。結論は反対だとしても、良い面も考えたうえで答えを出したい。一旦落ち着こう。

わが身を振り返ると、両親はずっと共働きだったからボクは少年時代のほとんどを4つ年下の弟と2人ですごした。

ときどき友達と遊ぶときについてきて邪魔だな、と思うこともあったけど、二人で遊んで楽しかった思い出のほうが圧倒的に多い。

大事なことを思い出した。 バイオハザード5と6は2人でやったほうがぜったい楽しい。マリオブラザーズも2人でやったほうがぜったい楽しい。ボドゲなんて1人でやったらかなりむなしい。

やっぱり兄弟はいたほうがいいな!

まぁ1人めであんなに苦労したし、そう簡単にはできないだろう。また不妊治療が必要になるならあきらめよう。

その後なぜかあっさり授かり、一回は悲しくも流産となってしまったが、そのあともすぐに授かり今に至る。

また前回以上のうれしくもつらい日々がやってくる。ボクたちの闘いはまだはじまったばかりだ!

超賢者タイムからの生命の神秘

ボクらは妊活で苦しんだ。そのときがきたらとにかく頑張るタイミング法では出口が見えないまま2年近くがすぎた。

ステージを自宅からクリニックへと移し、ボクらは人工授精へと進んだ。

クリニックで看護師について行くと、テレビとプレーヤー、洗面台が設置された2畳ぐらいの部屋に案内された。

単行本サイズの黒いケースと小さな透明のケースを渡され「ココに入れて受付に出してください」と言い残すと、看護師はそそくさと去った。

え?何の説明もなし?と思いながら黒いケースを開けると、中には5~6枚のDVDが入っていた。女教師、看護師、OLやJKなど制服モノ中心のラインナップ。これは丁寧に説明されても気まずいな。

でもこれはダメだ。ボクは制服にはまったく萌えない。ニセモノだからか、ホンモノならいいのかはしらんけど、とにかく萌えない。

それでも、さっさとやらねば。「いつまでやってんの?」と思われるのは避けたい。

だが、機能停止したかのようにボクのは穏やかで、何もしないまま賢者タイムを迎えていた。物理的手段を駆使して無理やり事を済ませ、大小2つのケースを提出した。

結果は質、量共に残念な状態ではじめての人工授精は呆気なく失敗した。

日を改めて2回戦。また光の速さで看護師が去ったものの、今回はもう1人客人がいた。外でガス業者がメンテしてるっぽい。

ヘッドホン越しにガタガタと何かを動かす音が聞こえる。あー!ただでさえダメな制服なのにー!

「ここ、おいときますねー!」「は~い」みたいなやりとりが聞こえて、超賢者タイムに突入。また物理的手(以下略)

「これだから男性の身体は不思議なんですよ!」いつもボソボソ喋る先生が驚くほど声を張った。

前回とは比較にならない良い結果だった。今回のほうが環境は最悪だったのになぜ?

しかし、これで不妊治療は終わりを迎えたから、まさに生命の神秘である。

天使のように笑う悪魔

2歳半の息子は常に何か喋るか歌って走り回っている。静かになるのはYouTubeに熱中しているときかうんちをがんばっているときか眠くなったときぐらいだ。

特に数字と色に対する拘りがすごい。暇さえあれば10までカウントアップしているし、数字を見つけてはびっくりするような大声で読み上げる。

時計とか車のナンバープレート、ボタンを押せば数字が出てくる電卓とかが大好きだ。

目についた色も大声で報告する。今のところ認識している色は、赤、青、黄色、緑、オレンジ、ピンク、白、黒、茶色、グレー、水色、黄緑ぐらいだ。

めっちゃボクの顔を覗き込み同意を求めてくる。「あか!」「あかやねぇ」と返す。うっかり反応しなかったら、反応するまで「あかー!あかー!」としつこく迫ってくる。「あかやねぇ」と返すと満足気な表情を見せる。

道行く車を指さしては、その色を大絶叫。自分がわからない微妙な色は「んー!」と指さしてボクに言わせようとする。「えーと、あれはベージュ?(自信なさげ)」

家族だけの閉鎖空間なら、ほのぼのしたもんだ。だが、公共の場だとほのぼのなんてしてられない。

息子の肌荒れが酷くて皮膚科に連れていったときのこと。緊急事態宣言が解除されたタイミングだったから、近所の皮膚科には人が殺到してた。

待合室に人が入りきれず、外で退屈しのぎに遊んでいた。待ち時間が1時間を超えてそれにも飽きた息子は、大声でアンパンマンのマーチを歌い始めた。

あ!あ!あんぱんまんー!やさシみちみはァーー!

ちょ、こんなとこでやめれ!なんでいつも以上にメロディほぼ無視の大絶唱やねん。道行く人たちの視線が痛すぎる~~~!

パパはこれまでもこれからも目立たぬよう人に後ろ指さされぬようひっそり生きていきたいんだ。

親の心子知らず。困り果てるボクを見て天使のように無邪気に笑う息子がボクには悪魔に見えたのだった。

検索順位の低下なんてどうでもいいから、ブログ名変えてやる。

ブログ名、変えたくなったので変えた。

急に思い立ってブログの名前を変更した。

ブログの名前を変えるのはSEO的によくないとかいう話も聞いたことはあるけど、もうそんなことはどうでもいい。そんな制約に縛られることなく、書きたいことを書くというブログをはじめたあのころに戻ろう。

pecopla.net

変更の程度にもよりますが、サイト名を変更すると一時的に表示回数とクリック数の両方が減少し、結果的に検索順位が低下する傾向が見られます。(ペコプラ)

検索順位が低下するとか、いつから気にするようになったんだろうなぁ。そりゃせっかくWEBに公開するんだから、たくさん読まれたほうがうれしいに決まってるけど、そのために書きたいように書けなくなってたら本末転倒だ。思うように書きつつ最低限妥協すべきところは妥協して、人に読まれるようにも配慮するなんて器用なマネはボクにはできない。

いや、ちょっと待てよ。もうあのころには戻れないからブログの名前を変えたんだった。もともと【いずれも。】という名前には自分をとりまくできごとはすべてなんらかの意味があって、ムダなことなどひとつもないのだ!というような超ポジティブな思いが込められていたんだっけ。

ていうか、あるよあるある。ムダなことのほうが多いんじゃないのってぐらいムダがあふれてる。なんなら自分自身の存在自体がムダ・・・だとは薄々感じてるけど、それは今や人の親でもあるボクとしては、ちょっとそう簡単に認めるわけにはいかない。

それはさておき、どう考えてみても意味なんかないけど、やらなきゃいけないことはいっぱいある。それに最近のできごとでいえば、コロナが重症化して亡くなる人が何人もいるわけだけど、そんなの必然であろうハズがない。いずれも必然なんて言ってたの誰だよ、まったく。はいボクですすいません。

そして、自分が人生で使える時間は有限なのだ。あれもこれもいずれも、じゃなく自分にとって有益だと思えることをできる限り選びとっていかなくちゃいけない。じゃないと、誰かにいいように自分の時間を削られて気がついたら虚しく人生が終幕してしまうのである!

ふう。これだけ自分のブログ名を全力で否定するやつはなかなかいないだろう。まあ、こんな状態で【いずれも。】という名前でブログを続けるわけにはいかなくなり【イズレモシモ。】に改名したわけだ。

めざせ!隠れ家ブログ。

にしても、イズレモシモとはなんてはかないブログ名だろう。あいまいな言葉を2つも掛け合わせていて意思薄弱極まりない感じだ。だがそれがいい。イズレモシモと儚い希望を胸に抱きつつ、ひっそりと存在し続けるブログ。これはまさにボクの人生そのものだ。ひっそり万歳。めざせ!隠れ家ブログ。(誰にも見つけてもらえないのを隠れ家ブログとは言わない)

隠れ家ブログは、別に隠れることが目的ではありません。流行を気にせず、周囲に合わせることもせず、淡々と自分がやりたいことをやる、という一つの姿勢です。地味を目指すわけではなく、地味であっても、自分なりのこだわりがあればお客さんはやってきてくれる、という思想を持つことです。おそらく、そうしたスタンスの方が自分自身に寄り添ったブログができあがることでしょう。(ブログを10年続けて、僕が考えたこと)

ブログを10年続けて、僕が考えたこと

ブログを10年続けて、僕が考えたこと

  • 作者:倉下忠憲
  • 発売日: 2015/05/29
  • メディア: Kindle版

さっきイズレモシモで検索したら、このブログしか出てこなかった。これはすばらしい。いずれもって検索したら「いずれもといづれもとどっちが正しい?」とか出てきて、どうでもええわと毎回つっこまなきゃいけなかったもんなー。

カタカナ表記だと検索されやすいかどうかは知らんけど、人にブログ名を教えて見てもらうには便利そうだ。いや、自ら教えてたら隠れ家になれへんやん。隠れ家マインドを持つのってむずかしいもんだな。

というわけで、一時はひっそりと閉じようかと思っていたこのブログ、もしかしたらもうちょっと続くかもしれません。イズレモシモ更新されたなら、めちゃくちゃお暇な方はおつきあいくださいませ。